幸福な猫

幸福な猫

新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

私という多面体

自分のことを、気が弱い人間だと思っている。とても親しい人からは、すごく気が強いと言われるし、たまに怖がられるけど。以前、友人と喧嘩したとき「私のこと馬鹿にしてるから、そんなことを言うんでしょう」と伝えたことがある。そしたら「違うよ。私はみことちゃんが怖い。」って言われた。超予想外だった。私、怖がられてんだって。

どちらかというとね、気が弱い自分を奮い立たせるために、戦闘モードに入らないといけないんだ。全てのお給仕を戦いだと思っていた頃もあった。今思うと、ちょっとウケるけど。メイド服は、戦闘服だった。鋼鉄を身に纏っているような気持ちで、闘志を燃やして、お給仕していた。(当時、私がいると店内に緊張感があったと言われたのだが、圧倒的にこれが原因なんだろうな。すみませんでした。)

気を抜いてかかると、ご主人様に倒される。みたいな感覚。分かるかなあ。ただ強気なお給仕をする、とかじゃなくて、精神面で自分が勝っていないと、エンタメ的に楽しませることなんかできないよな、と。私は相手の言葉にすぐ傷つくし、突っ掛かりたくなる。そういう時、自分の気持ちが負けていると、相手のペースに呑まれて、うまいこと頑張れなくなる。詰まるところ、精神的な揺らぎが、表に出やすい。それが嫌だった。常に自分のペースを保ちながら、他人に流されないように、パーフェクトなお給仕をしたかった。お給仕のたび、自分に点数をつけていた。なんのために、こんなに勝ちに拘っていたのか、今では分からない。自分自身に課した制約が多すぎて、毎日苦しかったし。(多分、子供だったので、ストレスの受け止め方や発散の仕方がわからなかった。今ではうるせーって怒って済むようなことでも、当時はいちいち何日も傷付いては、家で泣いていたので)


今は全然こんなことないんだけどね。だいぶ穏やかになった。戦いよりは、握手がしたい(精神的に)。勝ちに行くよりも、コミュニケーションが取りたい。

しかし、まるくなった今でも、やっぱり人生のことは戦いだと思ってしまう。なにと戦っているかは分からないし、明確な勝ち負けがあるわけじゃない。なにかあるたびに、漠然と、勝ちに行こうと思って臨む。自分のやり方で、人から評価されたい。これが自分なのだという証明を繰り返して、自分の血や骨に変えてゆきたいのだ。

考えるのが苦手だから、たくさん考える。組み立てるのが苦手だから、先に形から作る。直感的に答えを出してから、論理を探す。自分が分からないから、証明しながら形にしてゆく。ブログも証明のひとつである。自分の型をたくさん作っていけば、勝手にぼんやりと見えてくる。そうやって、パターンでしか物事を見つめられない。多面的に組み立てることで、立体的な私が生まれる。お給仕、ツイッター、ブログ、歌やダンスも絵も、全部含めて、私という多面体。どれかひとつで、知った気になられたくない、みたいな気持ちで作っている。

私は自分の直感を信じて、勝ちにゆく。それらを証明として、自分を作ってゆく。


しかし、証明を重ねるごとに、強固になってゆく私の存在は、同時に、もろくなっていくような感覚がある。私という多面体の中に入っているものは、なんなのだろう。と、毎日怯えている。それなりに長くお給仕を続けて、アイドルなども経験して、それなりに積み重ねてきた私という箱。フタを開けたら、とんでもなく小さくて、よわよわの子供がいるような気がしてならぬ。不安だな。誰にも見せたくない。怖いから、今日も勝ちに行く。私は気が弱いので。