幸福な猫

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新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

悪いことはしちゃいけないよ【後編】

この記事は、昨日・一昨日に投稿した記事の続きです。


前編→悪いことはしちゃいけないよ【前編】 - 幸福な猫

中編→悪いことはしちゃいけないよ【中編】 - 幸福な猫


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指導のできない指導者。いじめが蔓延する湿ったような空気。見て見ぬ振りの大人たち。それらを全部無視して練習をする私。

そんなめちゃくちゃな一輪車クラブに、転機が訪れる。


ある日自宅で、母が神妙な面持ちで話しかけてきた。

「Aちゃんたち、このクラブを出て行くらしい。自分たちで新しいクラブを作りたいんだって」

 


き、きたーーーー!!!!

心の中でスタンディングオベーションが沸き起こった。彼らがいなくなると思ったら、1秒で心が軽くなった。

 

事の経緯は簡単で、指導者の先生に愛想を尽かしたから出て行く、ただそれだけだった。理由は大いに納得できる。前述した通り、先生は文字通り何もできない人だった。

実際、指導者としての実権はAの母に移りつつあった。Aの母もまた相当なくせ者で、政治家みたいに立ち振る舞えるステージママ。私という雑魚キッズにすら、何度も何度も嫌味を言ってくるような人だ。白い巨塔の登場人物みたいだった。

彼女は持ち前の実力を存分に発揮して、先生を追い出そうとしていたのだ。しかし先生がそんなことを快諾するわけがなく、保護者軍団と先生は相当揉めたようだった。先生が出て行かないから、彼らが出ていく。そんな感じだった。


母は私に確認してくれた。「あなたも一緒に行きたい?」と。

行くわけないじゃん!爆笑しながら否定した。私はAたちのいじめを無視してクラブに通っているけど、別に許容しているわけではない。居なくなるならそっちの方がありがたい。練習中にヒソヒソ笑いながらこっちを見てくるような連中は、いない方がやりやすいだろう。

たしかに今の指導者は終わっているが、新しくできるクラブもまた終わっている人間の集まりなのだ。Aたちに付いていく必要性はまったくなかった。人が減る分、広くなる練習場にいる方が何倍もマシだ。

 


こうしてあっさりとAたちはクラブを辞めた。その時、私より上手かった子たちは全員そっちに移籍した。私と初心者の小さい子たちが残され、クラブの人数は半分以下になった。

私は水を得た魚のように、のびのびと練習に打ち込んだ。やればやるほど、一輪車のことが好きになっていった。たくさんの映像を見て、技を研究し、演技を研究し、もはやなんというか 一輪車のオタクだった…

他のクラブの指導者に目を掛けていただいて、指導していただく機会も増えていった。私はかなりクレイジーな人たちに囲まれて一輪車人生を歩んだが、この頃が一番順風満帆だったように思える。


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Aたちが出て行ってから3年後くらい。私も彼女らも、まだ一輪車を続けていた。その頃、私は大きな大会への予選を通過し、クラブの代表として出場することが決まった。そして彼らのクラブの代表の中に、Aの名前もあった。Aは今も昔も、グループの中では絶対的なエースだったのだ。

彼らが出て行った後も、大会ではよく顔を合わせていた。が、この大会は私にとって忘れられない大会となった。


今回、私とAの出番は近かった。正直少し緊張していた。出番前の練習中、Aの方をちらりと見ると、口元がモグモグ動いているのが見えた。こいつまさか、大会の出番前にガムを噛んでいるのでは?

そう、Aは所謂不良になっていたのだ。当時は眉毛も全部剃っていたような気がする。そういうタイプの不良。私は真面目な少女だったので、運動中になにかを食べることなんて、絶対にダメだと思っていた。ガムひとつでも、スポーツをする者の姿勢としてはおかしい。そう思っていた。しかしAは出番前ですら、ダルそうにガムを噛みながら練習していた。こいつ…めちゃくちゃナメてるな…。(噛んでるんだけどね)(やかましいわ)


Aは出番直前にガムを吐き出し、こなすように自分の出番を終えた。人の演技を見ると緊張が増すので、ちゃんと見なかった。が、視界の端で捉えた限り、なんとなく気合が入っていないように見えた。そんな演技だった。

私はこの日に向けて、自分にできることを必死に努力してきた。かなり仕上げてきたつもりだった。当然私とAの間には明確な実力差があったが、気怠そうなAを見て、私の闘志は静かに燃えていた。


私の出番は、非常に上手く行った。ミスはあったが、持っている力は全部出し切れた。大舞台でここまでやり切れたことが嬉しい。そう思えるくらいだった。正直、結果が早く知りたかった。自分よりも上手い人のたくさん出場する大会で入賞したいとか、そんな大それたことは思えなかったが、自分はこの大会でどのように審査されたのだろうか。ただ、それだけが気になった。


そしてこの日、私もAも表彰はされなかった。いや、自分は出場が出来るだけでも万々歳、くらいの選手だったが、Aはよく表彰される選手だったので、ちょっとびっくりした。自分は一層、今大会の詳細な結果が気になった。


表彰されなかった人たちの結果は、表彰式後に知らされることになる。私はすぐに速報を見た。いつも下から見ていくのだが、この日自分の名前を見つけた時はとても驚いた。だって思ったよりも良い順位で、すぐに見つけられなかったから。

正直、舞い上がるほど嬉しかった。自分より上手だと思っていた子たちより、自分が上の順位にいた。実力を出し切った上での結果だったので、こんなに嬉しい事はなかった。


その後、Aの名前を見つけた。Aは、私よりもほんの少し上の欄に名前が書かれていた。3個も違わなかった気がする。

もちろん勝ってはいない。しかし、ここまで来れた、と思った。一番下手だった私が、エースだったAとかなりの僅差だったのだ。

一輪車は項目別の得点を合算して順位を付けるのだが、私はAに勝っている項目もあった。この事はクラブでも話題になり、いろんな人に驚かれた。が、一番驚いていたのは自分自身だった。


この大会を通して少し自信をつけた私は「いつか満足のいく演技をしてAに勝ちたい」という感情が、ほんのりと心の片隅に湧き出てきた。いじめられたからやり返す!みたいな負の原動力はあまり湧かないが、やっぱり私は負けず嫌いだった。勝てるなら勝ちたい。そう思った。


私はこの後もしばらく一輪車を続けるのだが、Aはこれ以降まともに大会に出場する事がなくなった。多分、本格的にグレたんだと思う。わからんけど、そんな感じだった。

Aが大会に出場しなければ、Aに勝つことはできない。私はAと戦う機会がないまま、数年後に一輪車を辞めた。

 


私がAに勝つことは無かったし、出て行ったクラブのことを快く思える日も来なかった。恐らく今後も来ないだろう。自分にとって嫌な人たちだから、というのもあるが、シンプルに彼らの演技は好きじゃなかった。

「◯◯さんたちは、手の表現が歌詞に沿いすぎていて手話みたいだねえ(笑)」とか要らんことを人の耳に入るところで言ってしまい、それが本人達にバレてもっと目の敵にされたりもした。(私は今も昔も本当に口が悪い)(だからいじめられたんだろうね)

 


一輪車の話は、本当に全編通して揉め事しかない。今回長々と語った「いじめ」の話は、年表のほんの一部にしか過ぎない。この後も長年お世話になった指導者から盛大に裏切られたり、クラブにいるちょっと頭の不思議な人とうっかり裁判沙汰になりかけたり、ついでに弟もグレかけたり、ただの習い事でなぜ?というほど、日常がぐっちゃぐちゃになった。当時は常におかしな環境に身を置き過ぎて、何も感じなかった。が、今思うとそんなもんやめろよ、というくらい酷かった。

私が良くも悪くも一番印象に残っているのがこの時期だったので、今回文字に起こした。まあ思い返すと、理不尽なことばかりだったな。嫌な思いをしたことの方が多かった。裏切られることに慣れてしまい、誰のことも信用しなくなった。信用していた人、一人残らず全員に裏切られたから。

しかし、私は一輪車が好きだった。自分のしたい演技だけをする。誰にも屈せず、この軸だけをしっかり守って続けられた。嫌な思い出ばかりだけど、良い思い出。

 

 

本当に余談だが、Aはグレて高校を中退したらしい。私は高校を卒業したので「実質勝ち」と要らん自虐を数年間しまくって過ごした。以上。