幸福な猫

幸福な猫

新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

手放したくない

習い事の話をブログに投稿しながら、自分の成長過程、つまり昔の出来事にほんの少し向き合った。あまり他人に話すことのない出来事、思い出さなかった記憶。文章として自分の目で確認すると同時に、いろいろ考えさせられてしまった。


人の汚いところをたくさん見て育ったような気がする。青春のなにをしても良いような時間は、ほとんど一輪車に使った。父は「しつけ」が厳しい人だった。あの頃の私はいろんなものが怖くて、自我って芽生えていないまま、ぼんやりとしたまま歳だけを重ねた。自分の意思で、夢だった「メイドさん」になってから、初めて自分のことを「自我を持った人間」だと認識できた。そんな気がする。


この3日間、曖昧にしていた記憶の蓋をちょっと開いて、覗き見して、大変だったねえ。と思った。なんだか他人事のようにすら感じるのだ。


私は嫌な記憶をあんまり覚えていられない。知らないうちに勝手に消えていく。なんとなく苦しかったイメージだけが脳内を漂うのだ。今までの人生で一番辛かった期間も、辛かった気がするけど、ほとんど記憶がない。ただ目の前が暗くて、体が動かなかったような気がする。今、幸せに暮らしているおかげで、昔辛かったときって本当の出来事なのかな?って思うくらい、不確かな記憶。

だから私は大丈夫。苦い思い出には振り回されないし、トラウマにもなってない。そう思って生きてきたが、今回「そうでもないんじゃない?」と疑念が湧いた。


最近、弟に言われた言葉が引っ掛かった。「お前はすぐ人のこと皮肉ったり馬鹿にするよな。それ、いじめられた経験によるものなんじゃないか。」

たしかに私は人一倍、自衛心が強い。あまり良い環境に居なかった分、身構えることが増えてしまったような気がする。嫌なことをすぐ忘れちゃうのも、自衛心の強さからくるものなのかも。

私は脳内で仮説を立てて、嫌な気持ちになった。私は、自分にとって都合の悪い人間を馬鹿にして、立ち位置をすり替えようとしているのかもしれない。そうすれば傷付かないから、本能的にそうやっていたのかもしれない。だったら嫌すぎる〜。

実際、そうでもしないと、心が守られないような環境に居たような気がする。しかし根底に受けた傷がその人格を形成していたら、悔しいなって。


いや、どんな出来事も必ず「自分」という生き物に影響を及ぼすのだ。それは理解している。「いじめられなければ、もっと積極的な性格だったかもしれない。いじめられていたから、人を傷つけようと思わなくなった。」そうやって自分に言い聞かせたら、心が落ち着いた。良いことをたくさん吸収して、悪いこともたくさん吸収して、そうやって生きてきた。そのまま生きやすいように努力した結果が今なのだとしたら、どんな経験も無駄になっていないと思える。


いろいろあったけど、今の私は幸せなのだ。こんなに素晴らしいことはない。大きな問題ってひとつもない。(疫病について不安な気持ちになることはある)(それはそうだ)

今まで、苦しくて逃げたくても逃げられないような時が何度もあった。今はなにからも逃げたくない。自分の手の届く場所にあるものたちを全部守りたい。手放しくない今が一番幸せ。