幸福な猫

幸福な猫

新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

おだやかなおやすみ

今日はおやすみだった。おやすみおやすみ。何度でも言いたい。おやすみっていいよね。おやすみ大好き。おやすみ、という言葉の音色からして、もう好き。とってもやさしい響き。


お給仕が嫌なのではなく、シンプルに体力がないので、おやすみがないとつらいのだ。慣れない13時出勤、あからさまな体力不足、うまいこと寝て起きれない今の私にとって、おやすみは必要不可欠。カレンダー通りに暮らしている方、本当に尊敬するもの。5連勤、2連休、私からすると、アンバランス。うまく暮らせる自信がない。思えば学生の頃から、金曜日が近づくにつれて、体が終わっていった。

しかし、2連休ってどうやって使えば良いのだろうね。休みすぎると「なにもしなかったな」という凹みがくるし、動きすぎると「休めなかったな」という反動で体がバキる。1日なら何したっていいや、と思えるのに、2日って1日が2回あるからね。なにしても「これは正解の過ごし方だったのか」と思ってしまう。うまく使えない。遊ぶために2連休取る、とかは、すごくリフレッシュできるのに。


あ、2連休がある時点で、なにをするか予定を立てておけば良いのかな💡。そしたら凹まないかも。無数にある選択肢の中から、土壇場で「疲れるorだらける」を選んでしまった、と思うと、悲しいんだろうな。もっと上手くやれたのでは、と自分を責めてしまう。

休む日は休み、遊ぶ日は遊べばいいのか。気分なんか日によって変わるので、事前に考えておく意味があるのか、分からないけど。もしかして、みなさまそうやって暮らしてる?(こういう当たり前のことを、独り言のように、つらつら並べることで、見えなかった「当たり前」が見えてくる。嬉しいねえ。だからブログ書くのって好きなんです)


今日のお話をしましょう。土壇場で決めたわりに、かなり正解のお休みだった。といっても、大したことはしておらず、母と飲みに行っただけ。

私は家族と飲みに行くのが好き。特に母とは、年々会話するのが面白くなっている。数年くらい前まで、母のことが一切理解できなかったが、最近は「私はこの人の子供だな」と思うことが増えた。

母はかなり面白い人で、年齢より10歳くらい若く見えるし、感覚もすごくフレッシュ。加齢による視野の狭さとかも一切なく、常に時代や本日をしっかり見つめている。絵と音楽を愛し、言葉と感性を仕事にし、広告業界でバリバリ働いていた人。明るく話し、ムードメーカー的な雰囲気を持っており、子供の私から見ても素直にすごい人だと思う。


母は昔から、私のことをたくさん褒めてくれる。あなたの感性は面白いよ、文字を書く仕事をしたらいい、と言われて育ったけど「ただの親バカでは」と思って、まったく無視してきた。最近になって、私がブログを書くようになり、母は「ほらね」みたいな顔をしている。ような気がする。

言葉を仕事にしていた人に、文章を褒められるのは、すごく嬉しいこと。今日も褒めてくれた。あなたは言葉を仕事にできるよって言ってくれた。そんなふうに思って、文章を書いているわけじゃないが、そんな褒め方をされたら、どうしても嬉しいよ。


そういえば少し前に、私のブログを読んだ弟も、同じようなことを言ってくれた。こんなに本筋から逸れずに、こんなに捻くれた文章を書けるのはすごいねって。みんな、褒めすぎだと思う。これは自慢じゃなくて、本当に怖いから書いているんです。自分のことをそんなに褒められると、怖くなる。

何が怖いって、自分は学もなく、それっぽく見せることしかできず、裏付けのない言葉を垂れ流しているだけだから。評価されたって、その先はあるのかな。そう思っているし、すごく気にしている。(というか、最近いよいよひどく気にし始めてしまい、文章を書くことも、人と会話をすることも、以前より困難になってしまった。助けてくれ)

私はそのとき、素直に伝えた。「そんなふうに評価されることが怖い。最近、人から褒められすぎている気がする。本当の私は、みんなが見えている部分よりも小さくて、なにもない。持ち上げられすぎて、いつ底の浅さが透けてしまうのか、毎日不安に思っている」と。それを聞いた弟は、爆笑していた。

「お前のそういうところは人間らしくて良いと思うし、そう思っておけばいい」と言われた。なんか、こんな感じで良いっぽい。母もそれで良いと言ってくれた。不安そうにしているくらいが良いらしい。全肯定家族。ありのまま。ありがたい。


友達は多くないし、人と関わるのは得意じゃないから、あんまり人が周りにいない。そんな私が、安心して関われて、さらに認めてもらえるって、すごく貴重なことだ。

今や、良い家族だと思えるが、数年前まで、ほんとにまったく好きじゃなかった。子供の頃は、家族との関わり合いで、なにか救われると思うことはなかった。父も母も、すこし癖がある人なので、幼少期は、ひどく怯えていた。トラウマのようなものたち、当時できなかったこと、知らなかったこと、そのせいで生まれた歪みたちを、生育環境のせいにしたくなっていた時期もあった。いまだって、許せないことや、苦しかった記憶は、全然のこっている。

が、この歳になって、まともに関われて、いつでも帰れる場所があるっていうのは、とっても恵まれている証拠だな、と思う。私は、自分の感覚を認めてくれる人が、一番安心して関われる存在。なにかおかしかったらどうしよう、と、毎日おびえて暮らしているので。人と話すたびに、うまくできていたかな、と、何日間も不安が反芻する。一週間でも一ヶ月でも一年でも、不安な気持ちが忘れられない。普通に毎日じんわり辛い。(改善しなきゃね)

常に、人様を怒らせないか、失礼がないか、とっても不安。だから、飾らないままで良いのか、と思える人の前では、なにも辛くない。私にとって、とてもありがたいこと。無条件で認めてもらえる場所が、自分の家にあってよかったな、と、心から思う。


安心できる家族と酒を飲み、酔っ払い、ありがたみを実感しながら文字を書ける。こんなに素敵なおやすみがあって良いのかしら。今日は少しだけ前向きになれた。次のおやすみまで、また頑張れます。