幸福な猫

幸福な猫

新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

他人 散らかった言葉と脳

他人のことを考えるのはすごく苦しい。でも他人のことをもっと考えられるようになりたい。他人を大切にする気持ちをもっと知りたい。

もしかしたら他人のことを考える振りをして自分のことを考えているせいで、こんなに苦しいんじゃないかって思ったら、もっと苦しくなった。‬

 

文字通り、他人のためにしか生きられない人をたまに見かける。正直、その人たちのようになりたいとは思わない。単純に、その気持ちがまったく分からないから気になるのだ。他人のために何かしてあげることが喜びで、自分のための人生を送る喜びが極端に少ない人たちの気持ちが。

私は自分のためにしか生きられない。私は自分のしたいことをしないと輝けない。私は自分のために輝きたい。だから自分の人生の邪魔になる他人とは関わらない。

たとえば今、自分の仕事についてイヤな口を出されたら、どんなに好きだった人も、自分の中で「邪魔な他人」に大変身してしまうだろうな。私の大切なものたち、領域を侵すものは何人たりとも許せないや。


掘り下げて考えると、この強すぎる自意識が対人関係を窮屈にしているような気がしてくる。なんなら、他人のためにしていることもすべて自分へのリターンみたいな、見返り込みでの思考になっていそうだなと。そう考えると、他人のためにという言葉が怖くなってしまった。自分の浅ましさ、こんな形で見つめたくなかった。

なにも見ないために、もっとなにも考えずに生活したいけど、そしたらダメになりそうで怖いからやっぱりちゃんと考えたい。しかし考えてもダメになる。なにもしない不安を消すために、不必要な不安を生み出す。二面楚歌。ァヮヮ。


他人を大切にする方法はいまだにわからないが、お給仕のときだけ普段よりも理解できている。なぜなら普段の人間関係よりもかなり制約があり、それぞれの役割がはっきりしているから。私たちはメイド、お客さんはご主人さま、ご主人さまに楽しんでもらうために店内でお給仕をする、外では会えない、連絡もできない。ここまでハッキリしていればいろんなことが分かる。


つまり、普段の人間関係はわたしにとって自由度が高すぎるのだろう。マニュアル人間の私にとっては都合が悪い。コンカフェの距離感が一番たのしくて心地よい。自由って一番楽に見えて一番苦しいよ。コンカフェ界隈に身を置きすぎて、元々ポンコツだった脳味噌がもう少しバグってしまったようだな。

 

 

はやく人間になりたい。