幸福な猫

幸福な猫

新宿のメイドバーでお給仕する月詠みことのブログです。

性別はふたつじゃない

性別について考える時間が、今までの人生で長かったような気がする。バランスを取りたがる変に几帳面な性格も由来して、こんなにアンバランスな議題について無視できるわけがなかった。男性・女性という、生まれてきたときに勝手に分類されている体の性で、自分の生き方にまで影響が及ぶことが許せないと思って生きてきた。そんなものに屈したくない、という謎の反骨精神が常に存在する。


はじめてLGBTに触れたのは、大学生になってからだった。日本のジェンダーについて考える講義の初回で聞いた当たり前の言葉が、私の人生を解放してくれたのだ。

「本当は性別をふたつに括ることはできません。人の数だけ性別や考え方があって当たり前です。」

私は脳に衝撃が走った。私が今まで悩んできたこと、おかしくなかったじゃん。自分の性別をふたつに分け切れなくてモヤモヤしていた私は、その言葉にとても救われた。


視野の狭い18歳の私には、先生が神のように見えた。この講義を取らなかったら、いまだに分からないことだらけだったかもしれない。その日以降、私は毎日のように性別について考えるようになった。

「素敵な男性はたくさんいる。素敵な女性もたくさんいる。性別関係なく素敵に見える。私は内面的に女性らしい部分がたくさんあるけど、服はメンズの方が好きだな。人に可愛いと思われたいけど、それを利用して異性に媚びるのは生理的嫌悪感が湧いてしまう。女性らしさを履き違えない程度に女性らしくしたい日もあるな。」

こういうモヤモヤした感情たちは、全部間違ってなくて、これらの性指向すべて私の「性別」なのだと思えるようになった。今はLGBTという言葉もどんどんメジャーになってきたおかげで、自分の抱えていた苦しみが、歳を重ねるごとにじわじわと解けてゆく。非常にありがたい。


こう、自分のことを女性とも男性とも括るな、という気持ちが強いのに、メイド喫茶でばかり働きアイドルまで経験した。昔の習い事も女性人口が圧倒的に多く、品のない表現だが「性別が売り物になってしまうような世界」で生きてきた。私はそれらの世界に薄っぺらい性の魅力はあまり感じておらず、ただ自分の好きなものがたまたまそこにあっただけだ、という感覚でここまできた。お給仕は楽しい。メイド喫茶の空間が好き。頑張っているアイドルは最高のエンタメ。ただそれだけなのに、こういう世界に触れていると性について苦しむことも非常に多く、悩みが尽きなかった。

アイドル時代の私の衣装は、胸元が大きく開いている、かなり刺激的なデザインだった。最初は真剣に死ぬんじゃないかと思ったけど、オタクの人たちに見られすぎたおかげですぐに慣れた。「私はステージ衣装としてこの装いをし、アイドル性を確立する。オタクはこのアイドルを見てふざけた振る舞いをすることで、オタクアイデンティティを確立する。」そうやって役割分担されているから、意味のある性だと思えた。Win-Win。女性と男性ではなく「アイドル」と「オタク」間のコミュニケーションで済むレベルのものであれば、私にとって苦しくはなかった。


もっと昔は、軽いセクハラ発言からガチ恋という概念、すべて憎んで暮らしてきた。せっかく「メイドさん」「アイドル」という曖昧な概念で作られた2.5次元の偶像に、思い切り人間的な「性」を持ち込まれることが腹立たしいとさえ思った。この頃はいろんなものが許せなくて、生きるだけで苦しくて、毎日大変だったな。(今も生きてるだけで毎日大乱闘だが)

かなり昔「性に魅力を感じるのは人間の本能。君は中性的なものに憧れているみたいだけど、そこでどんなに抗ってもしょうがない。我々は動物だ(要約)」みたいな話をお客さんにされたことがあった。そのお客さんの話をぼんやりと聞いた。言ってることは分かるけど同意はしたくないな、と思いながら、ただ聞いた。帰り道、突然涙が溢れ出してはじめて「あれ、いますごく苦しいな」と気付いた。

私が抱えている苦しみなど誰かに理解される必要もなく、誰がなにを考えることも発言することも自由だと思っている。その上でも私はこう言われることが嫌だったのかもしれない。理屈と感情は一致しないな。なんてAIみたいに自分の気持ちを分析しながら、涙が出た=ストレスを感じたんだなと自覚した。

そこから、脳がぐちゃぐちゃに暴れ出した。涙が流れるのと一緒に、心の結界が壊れてゆくようだった。


「私の信じて続けてきたことってなんなんだろう。そんなに性を安売りして生きていかなきゃいけないのか。あまりにも品がない。ましてや、自分の性だって良くわからないのに。たまたま体が女性だったから女性として育てられただけなのに。たまたま女性らしい顔付きだっただけなのに。たまたま胸が大きかっただけなのに。それが私を女性だと決定付ける根拠になり得るのか。私の心はどこに存在していた?あなたの括りに私は存在していない。同じ動物だからといって、必ずしも同じ考え方をする訳じゃない。私は動物のメスじゃない。」電車の中で泣きながら、心が壊れそうだった。


お客さんが悪いとは一切思っていない。自分が被害者だとも思わない。私の地雷がそこにあっただけ。ただ悔しくてしょうがなかっただけ。

反論したいわけじゃない。誰も間違ってない。だからどうにもできない。そんな無力感に打ちのめされて、思い出すたびに涙が出てしまうのだ。

その度に自分の性を呪う。私が女性らしい体型をしていること、女性らしい顔をしていること。たまたま胸が大きかっただけで、好奇の目を向けられること。性別がなければこんな悩み方もしなかったはずなのにと、理不尽な責任転嫁をしてしまう。性別が悪いわけじゃないのは分かってる。だからこそ苦しい。誰も悪くないことは、こんなにも苦しいのだ。


メイド喫茶・アイドルの世界に性を持ち込まれることに、ここまで嫌悪してしまう。本当にめんどくさいね。私は自分のことを妖精かなんかだと思って生きてるのかもしれない。実際「月詠みこと」はたまごっちとか精霊みたいなものだと思われたい気持ちが強い。いや無理なんだけどね。せめて、人間らしく生きているけど絶対に性は売らない。女性らしい美しさしか出さない。私は品のないものが嫌いだし、品のないことはできない。そういう風に振る舞い続けてきたつもりだ。

今はセンシティブな時期も過ぎ、セクハラを言われても我慢をすることはなくなった。そういうの嫌い!!うるせーバカ!!で良い、ということにした。良くないけどしょうがない。私の感情を凝縮させたらこうなるから。メイドさんへのセクハラ発言は許しちゃいけないのだ。

ついでに、ガチ恋は処刑!!!!みたいな過激思想もすっかりなくなった。たくさん悩んだからこそ、どんな気持ちを誰が抱えても良いのだと思えるようになった。大人になったのよ。人を好きになることにルールなんてないものね。みんな、好きに生きよう。ラブ、そしてピースだからな。


まあ、私のことを女性だと思ってて良いけど「月詠みこと」だと思って接してくれよ、とすべての人に思う。煮詰まった苦悩を並べたが、結論としては「性別で括られるのが嫌」、ただそれだけなのだ。きっとこれから先もたくさん思い悩む。他人の些細な言い回しに毎日モヤモヤする日々を何年も何年も送っている。同性愛をおちょくるような発言を見聞きしても腹が立つし、女性のことを「女」と形容する男性にすらモヤモヤする。日常に溢れかえっている言葉のひとつひとつが喉に突っ掛かる。それでも誰のことも嫌いにならないし、全て受け入れて、全員自由な思想で生きていけたらいいねと思うんだ。自分が受け入れられないような苦しさを抱え続けて生きてきたから、あらゆる人のことを受け入れて生きていきたいよ。いつか思い悩まなくてすむような広い器を手に入れられるよう、受け入れ続けよう。他人も自分もね。


こういう思想に囚われて人生かけて思い悩んでるのも我ながらめんどくせーなと痛感している。私だったらこんな人間とあまり深く関わりたくない。でも私は私を許容している。だから、これからも周りに受け入れてもらえますように。どうか今後も関わって欲しい@周りの人たち